全道展 そのなりたち 本田明二 (1975年 第30回目録より)
昭和20年・8月15日あのいまわしいそして長かった戦争が終った。しかも連合軍に対する無条件降伏という形の敗戦であった。
いく百万もの国民を犠牲にして終った戦争が残したものは、荒廃した国土と,慢性的食糧不足でやせおとろえ,虚脱状態の国民,そして混乱した経済,混沌とした世相であった。
天皇みづから終戦の大詔を放送したその日、札幌の空は青く,真夏の太陽はちりちりと輝き,人々の空洞のような心の中を照していた。
中島公園の西側を流れる創成川は、川底の小石が見えるほどきれいで、子供達が大声ではしゃぎながら、水遊びをしていた。
松島正人は野菜畑になっている前庭にぼんやり立って、ふさふさとよく伸びた、とうきびやじゃがいもを見ていた。
松島が疎開して来たのは終戦の一週間前であった。3月の東京大空襲で焼けだされた友人が,次ぎから次ぎと彼のアトリエに避難してくると,もう絵を描くどころではなく、彼自身も逃げ出すことを真剣に考えねばならなくなり、札幌の友人中根光一のはなれを借りることにして、家族3人廃墟と化した東京をたった。
中根光一の家は、中島公園の西南側の公園に面してあった。よく手入れのゆきとどいた植えこみに囲まれ、どっしりした門構えの家であった。彼は父の代から服部紙店の重役で、美術コレクターとして知られていただけでなく,札幌を訪れた画家もよく世話をしていた。いつも北海道を訪れた画家が誰か中根宅に泊っていた。
ふっくらとした丸顔で、いつもニコニコしていた中根は,いかにもぼんぼん然として、心から絵や,絵かきが好きな風だった。
松島は,その中根邸の裏の小さな家を借りることになった。彼と中根は十年来の友人で東京の苦境を知ると、中根は疎開をすすめ,快よく自分の持家を開放したのである。
最小限の荷物をもって疎開した松島は、一日も早く絵を描く生活にもどりたかったが,忙しい日々が続いた。
戦争中札幌は空襲をうけていなかったが,万一の爆撃を考え,その時の被害を最小限度に食いとめるため,防災道路を作っていた。南4条通り,南9条通りがそれで,軍の命令でいや応なく家がこわされ、道路は拡幅されていった。それに対して一言の抗議や反対。許されない時代であったのである。19条通りにあった60坪ばかりの家の取りこわしも、彼の疎開の目的の一つであった。
古材も貴重であった。石狩当別に土地を求め、荷馬車12台で古材を運び,40坪ぐらいの家はできるだろう、などと考えているうちに終戦になった。
当時の会員たち右から、小川マリ、松島正幸,岡部文之助、国松登,三雲之助の各氏
よく伸びたとうきびの葉は、午後の光の中にゆさゆさとゆれていた。
思うように絵をかく生活にもどれない苛立ちと、進駐軍が入って来たら、どうなるのだろうという、新しい不安が気持をおちつかせないのだった。
そんな気持は,疎開して来た人たちだけでなく、他の画家たちも同じであった。よく中根邸や,松島の家に集っては語るのがせめてもの心の安らぎであった。
当時疎開していたのは,松島のほか,田中忠雄,山内壮夫,上野山清貢,菊地精二,小川マリ,三雲祥之助,荒井竜夫などが札幌に居た。
田中は藤の沢駅近くのリンゴ園に,山内は北大病院前の父が局長をしていた郵便局に居たが,終戦の年の春北6条西19丁目に移り,菊地は栃内忠男宅に,小川は札幌の親戚の家に、三雲は札幌の出身ではなかったが,中島公園近くの川村宅(昭和50年地方選で,札幌市長候補になった人)に寄寓していた。
上野山は南7条西3丁目の成田山の境内に小さなアトリエを作って住んでいた。
一木万寿三は前の年に江部乙の兄のリンゴ園に来ていたし、西村貴久子は3月の東京空襲で札幌に疎開し、毎日のように上野山のアトリエに通っていたが,終戦になると食糧事情のいい砂原に移って,森町の女学校の図画の先生をしていた。
川上澄生は北海道の出身ではないが、奥さんの伝手で白老に移り,中学の英語の先生をしていた。
小川原脩は、終戦直前倶知安の実家に疎開していた。それらの人々は終戦の当時,30代,40代の若さであり、中央画壇で一応その作品が認められていた元気いっぱいの画家たちであった。人々の上に重たくのしかかっていた戦争が終ったものの,ただちに大作をはじめるには画材もとぼしく、食べることに追われる日々であった。
よく松島の家や、中根邸に3人,4人と集まって語りあった。ある時は、だれかの見つけてきた酒をのみながら、これからの美術界のこと,戦争中とちがって,どんな絵でも自由にかけるようになったよろこびや,絵がどう変ってゆくだろう,など酒の酔いがまわると,ますます熱気をおびて語るのだった。
だれもが作家としての意慾をもち,芸術家の誇りをもっていながらも、物理的に自由に制作が出来ない苛立たしさをかくすすべもなかったし、それだからこそ、お互に会って語ることにより,刺激しあい,制作意窓の灯を消さないよう、努めていたのかもしれない。
そんな時、ほのぼのとした明るいロマンスが生れた。三雲祥之助と小川マリの結婚であった。
「結婚しませんか」という三雲の言葉を,「セッケンイリマセンカ」と小川が聞き違えてはいと言ったのが結婚の承諾と三雲がとったのだと、皆が二人を冷やかした。
三雲の言葉は、どこかはっきりしない癖があり,日本語が,英語で話をしているようなひびきをもっているので,そんな神話のようなエピソードを生んだのかも知れない。当時石鹸など、思いのほかの貴重品だったのである。
8月の末,松島の家に友人が集り,三国,小川の2人は形ばかりの結婚の盃を交わした。
戦争中から心なごむことのなかった人々は、2人の結婚を心から祝福した。
やせて、服だけはきらきらと輝いている三雲と,オカッパ髪のうしろに、小さな櫛をさして、ちょこなんと座ってる小川の2人は,新郎新婦というには、ちょっと古めかしいが,いく度も乾杯の盃を重ねるうちに、緊張も解け,いつものように友人たちの会話の中に溶けこんでいった。
「北海道の新しい展覧会をやろうじゃないか」
いままで、幾度も語られてきた言葉であった。一面の焼野となり、廃墟と化した東京を思い浮かべるたびに、しばらくは東京に帰ることはできないかも知れない、という不安とあきらめの気持は否めない。その反面,この北海道に根をおろし,新しい創作活動を始めなければならない、という意慾も持ちはじめていたのである。
得体の知れないあやしげな酒に酔いがまわると、だんだん新しい展覧会の構想は夢をはらみ、戦後北海道の、否々日本の美術は、おれたちの手で歯車が廻されるのだという、多少オーバーな気持になり、いま自分の握っているハンドルを廻すと,日本中の歯車が,音を立てて廻り始めるような錯覚に陥るのだった。
病妻と、2人の子供を連れて疎開していた山内も,日頃の苦労を忘れ,持前の大声でよくしゃべった。戦争がはげしくなっても疎開しないで東京にがんばっている同郷の本郷新や佐藤忠良(この2人は後に協会に参加する)などのことを思うと、おちつかない気持であった。だから新しい展覧会にはことさら情熱をかたむけていた。
「作品の質を大切にする会にしよう」つまり,良い展覧会にしようということが大方の意見であり、年に一度,展覧会の時だけに1~2枚の絵をかくような人は入れないで本当の絵描きの集団にしよう。酒の酔いに、話は時々脱線したが,それがいく度も到着した結論であった。
「新聞社にも協力してもらおう」
それには誰も異存のあるはずもなく、結婚の宴はいつまでも続いた。
9月2日,東京湾上のミズーリ号で,降伏文書に調印が終ると,連合軍は日本本土に上陸を開始した。
その先遣隊は札幌にやって来て建物の接収をはじめた。女性は何をされるかわからない、男は皆どこかにつれてゆかれて働かされる。そんなうわさが真顔で語られ、人々をますます不安におとしいれていた。
松島も妻子をこのまま札幌に置くことに不安を感じ、知人をたよって三笠の寺に、再び疎開させることにした。
そんな或る日,中根光一が訪ねてきた。いつもの笑顔は消え、幾分青ざめて緊張していた。
「僕の家も、どうやら進駐軍にとられそうなんだ」
公共の建物や学校などの外,大きな建物はみな接収される。個人の家でも、立派なものは、上級将校の宿舎になるという。
「うちも、どうもそれに入るらしいんだ」
中根の顔色のさえない意味がすぐわかった。「学校が接収をのがれるのなら、学校にしよう」
松島は即座に答えた。講師は沢山いるし、みな中根に世話になっているんだから、こんな時にこそ何んとかしなくては、という気持もあったし、札幌の絵をかきたがっている若い人たちを集めて、とにかく絵の仕事をするという楽しさにも連っていた。
相談をすると皆賛成であった。さっそく板を削って「札幌洋画研究所」と書いた看板を作り,中根邸の門柱にうちつけた。アトリエは広い応接間が当てられ、講師は三雲夫妻,松島,田中,菊地などが交代で当ることになった。
日曜日を除く毎日,この研究所は開かれていた。安の定,若い人たちが集まって来た。
小西葉子(現,岸)松本伸子(現、八木)青木泰子,坂原チエなど、現在も画家として全道展その他で活躍している女性が多く、男性は少なかったので,研究所はなんとなく華やかな雰囲気であった。三雲夫妻が一番熱心で、毎日研究所に現われた。
野口弥太郎,児島善三郎,山本正,中川一政などという人たちも,来札すると中根邸に泊り、よく研究所に顔を出した。児島善三郎など、描きかけの絵を若い人のイーゼルの間にもちこんで、一諸に描いていたものである。研究生の中に,堀井という美人がいて、その人に人気があってみんな研究所をのぞくのではないだろうか、などと若い人たちはうわさした。
一方、日曜日には松島のところに青年画家たちが集って来た。若い国井澄,谷口玉二郎,八木保次,渡辺伊八郎,谷口一芳、竹内豊などであった。谷口玉二郎は隣の車庫で額縁や絵具箱を作り,素人の手づくりでも結構売れたものである。
「札幌洋画研究所」と、松島のところに集った若い人々の多くは、後に全道展で活躍することになるのだが,その頃はただがむしゃらに絵をかいていた。
大通公園は野菜の畑になっていた。札幌市民が詩の街のシンボルとして自慢する幅ひろい公園は,食糧増産のため、中央創成,大通国民学校の学童や、となり組の手でじゃがいもやとうきびが植えられていた。
大通にあった永山将軍の銅像は、戦時中に供出され、ぶざまな台石だけがのこり,進駐軍が入ってきてからは,その前に電車通りに面して白いペンキ塗りの、小さな進駐軍専用の教会が建った。
北海道新聞社は,赤レンガの古風な建物で、今の場所にあった。東側の郵便局の軟石作りの建物と共に、大通公園に詩情を添えていたものである。
「北海タイムス」として、ながい間北海道民に親しまれていたが,昭和17年政府の方針により,道内11の各新聞社は一つに統合され,北海道新聞となった。
言論弾圧などというなまやさしいものでなく,言論は完全に政府の方針どおりに統制されていた。
食糧や衣料など生活必需品は切符制になり、”新体制運動”は”大政翼賛運動”となり、更に戦争が泥沼に進んで東洋の平和のための”聖戦”になってくると、すべて”非常時”の国策にそわないるのは、その存在もゆるされないものとなった。
文化部があったものの、戦争の進行にともない、文化欄は第二次的なものとなり,紙面からだんだん姿を消し,戦争末期には夕刊るなくなり,2ベージ立ての紙面には,文化欄を入れる余地はまったくなく、事実上文化部は消滅したも同様となった。
必勝を信じ,戦争完遂を呼びかけなければならなかった新聞は、「権力からの自由」という、自らの使命をも放棄しなければならなかったのである。
札幌に進駐してきた米軍
買い出しで混み合う当時の列車
関口二郎は窓の外の景色を見ていた。バスや全ての自動車は木炭のカマを車の後ろにつけ、細い煙突から黒い煙をだして走っていた。
彼は演劇畑の人だけれど、戦争中に演劇報国隊が組織され、劇団員は肩章をつけ、工場や兵隊の慰問に廻るようになると、だんだん演劇から遠ざかり、戦争が終っても演劇には近づく気にはならなかった。
戦争中,芸術家にもいろいろと身の処し方があった。すべてが戦争のために、ということに腹を立てながらも、声もあげられなかった人。その体制に積極的に乗っていった人。芸術活動をやめた人。銃をもって戦場にかり出された人。人それぞれに、それぞれの生き方があり、戦争が終ってその責任を追求する混乱もあったが,何らかの形で協力しなければ、キャンバスも絵の具る手に入らなかった時代である。新聞も例外ではなかった。
これは悪夢である。いつまでも悪夢にうなされて、呆然としていてはいけない。暗い過去をたち切ろう。すべては新しく生れ変り,あらたな出発点に立たねばならない。憲法さえ新しくなるのだ。
戦前の昭和15年に北海タイムスに文化部ができた時関口は次長になったが、北海道文化賞を作っただけで、やがて戦争の中に文化部も埋没してしまった。戦争が終っても文化部は復活の気配さえない。
まずその復活に努力するのだが,紙面がなくてはどうにもならず,何かやらねばならないのだが,何をどう手をつけてよいのやら、戸惑うばかりであった。
関口は色々な芸術家と交流があった。その中で疎開して来た画家たちが新しい展覧会をやりたいと熱心に話していたのを思いだした。
「新しい展覧会」,頭の中でいつももやもやしていたものが、一つに凝結した感じであった。
「これだ」
関口は回りの人が振り向くような大きな声で思わず叫んだ。北海道には大正の時代から道展がある。しかし,戦争末期には展覧会も出来なくなり、その活動も停止している。
それも過去のものだ。北海道の美術界を再編成し、新らしい力で出発すべきである。
関口は美術に関して,まったくの問外漢であっかたら、純粋に北海道美術の新しい構想が生れたのかもしれない。
さっそく「札幌洋画研究所」を訪ね,皆の意見をきいた。勿論呉論のあろうはずるなく、新聞社の協力が得られるということで,百万の味方を得たよろこびに、皆の声もはずんだ。
誰を会員にしよう、いい展覧会にしよう、と夫々思い思いのことをしゃべったが,結局道展の主な人にも相談しようということで関口は帰っていった。
新しいものが作られる興奮とよろこびに関口の表情は明るく、暗ればれとしていた。
中島公園の池の面には,もう秋風がそよいでいた。
過去にあったものを復活するよりも,新しいものを創ることの方が,新聞社にとっては比較にならないほどの魅力であり、したがって力の入れ方も違ってくるものなのである。
関口は歩きながら考えた。今まではニュースとして第三者的な立場で報道するだけであったが,今度は経済的にも協力しよう。彼の計画はますますふくらんでいった。
経済的協力,いいかえれば社の事業としての新しい展覧会のプランを作り,会社の重役会に出すと、無理なく通った。
新聞社の機構の中で,これは当然事業部がプランを作り実行するものだが、どこからも異論はなかった。
これから後も関口は自信を得て,いろいろのプランを作った。次の年から毎年はじまる「芸術シリーズ」も彼の案で,邦正美,茨本真理,井口基成などを呼んで演奏会を開いた彼は、自分でトラックの荷台に乗りピアノを運ぶほど張り切っていたころである。
新しい展覧会の構想について,何回も道新の会議室や中島の中根邸松島の家で準備会がもたれた。
札幌にいた上野山清貢,三雲祥之助,小川マリ,松島正人,菊地精二,田中忠雄,山内壮夫,今田敬一,繁野三郎,能勢真美などが準備会の主なメンバーであった。
「戦後の北海道美術の新しい出発のために、道展を発展的に解消し,再編した形で、あらたな展覧会を作りたい。新聞社も全面的協力を惜しまない」。
関口の説明に、始めて聞く人も皆賛同した。道展を復活しようという意見もなく、大勢は新しい展覧会に集中された。
「どんな人を会員として呼びかけようか」まずそれが問題であった。戦前の道展会員をそのまま会員とするのでは,新しい会を作る意味がない。
「水準の高い展覧会」にするためには、はじめが大切で、「そのためには、やはり東京の展覧会の会員か,それに準ずる人。無所属でもいい仕事をしている人。」
という、漠然としたような、はっきりしたようなことになり、集った人々は思いつくまま名前をあげていった。
「小沢に西村計雄というのがいる。彼は日展で一回特選になっているが,どうだろう」。
松島が提案したが,誰も賛成しなかった。西村計雄は、今パリで活躍している人である。
いく度かの準備会で会の構想も煮つまり,人選は更に皆の意見で増やしてゆこうと、ようやくまとまった頃は,秋も終り、食糧も,燃料も不足な、寒い冬となっていた。
旭川、函館、小樽など、比較的画家の集っている地方は、戦中から顔の広い岩船修三に連絡をしてもらおう、ということになり,事業部から、さっそく旭川支社を通じて岩船に伝えられた。
「日本画にも参加を呼びかけよう」
これは松島が引きうけた。
一木万寿三の経営していたリンゴ園(江部乙)
岩船修三は戦争が終ると,そのまま旭川に居た。函館に帰るよりも、旭川の方が比較的食糧事情がよかった,というのがその理由であった。
岩船は戦時中,旭川師団の報道部の将校であった。美術奉公隊を作り,その組織を通じて絵の具やキャンバスが画家に配給された。
画材までもが、陸軍省の手に握られていた時代である。
「軍に協力したふりでもしていなければ、絵の具だって手に入らないんだ。そして配給された絵の具で好きな絵を描いてけばいいじやないか」
彼はそう思っていた。
旭川在住の先輩高橋北修には、時々東京まで行って「軍納」というラベルのはった、絵の具や,キャンバスを運んでもらった。
召集が来たが何とかたのむといって来る画家もいた。
「彼は優秀な絵描かきだから、彼を失うことは大きな損失であると連隊区師令部にたのんで、楽な仕事にまわしてもらったこともあった。
又、いろんな画家から,従軍したいという希望もよせられたが,北海道からは千島ぐらいしか行くところはなく,数人が実現したにすぎない。繁野三郎,居串佳一,松島正人が中千島に,上野山清貢も同じく千島に行ったが,弾薬と間違えて船に積まれて来た酒を,これは俺のために送ってくれたんだと、毎日防空壕の中で酒ばかりにのんで,殆んど絵を描かなかった。
大月源次,能勢真美,国松登も終戦直前中千島に従軍したが,こで終戦になり、ほうほうのていで根室に帰って来た。
戦争が終って岩船は、読売新聞旭川支社の一室をかりてアトリエにしていた。
画家であるということで、今度はアメリカ兵がジープで迎えに来,室内装飾や,似顔描きなどさせられた。そのたびにいやいや出かなければならなかった。
旭川にも冬が来て、雪が降る頃,北海道新聞本社の武藤事業部長から,旭川支局長を通じて新しい展覧会の話がもちこまれた。
「岩船さん、こん度疎開して来た画家や,道展の主な人たちが一緒になって,新しい展覧会をやろうという話が,本社から来たんだが、あんた顔がひろいんだし、連絡係をやってもらえないだろうか」
長谷川支社長は、戦中の岩船の組織力も評価していた。岩船はその趣旨にも勿論賛成だし、連絡をつける人たちも、殆んど顔なじみだったので,その役目を快く引きうけた。
その頃旅行するということは、大変なことであった。特に雪の多い北海道の冬は、汽車のおくれは慢性的なもので、やっと入って来た汽車には、ホームにあふれた人が、いっせいに入口といわず,窓にも殺到した。
なかなか買えない切符は、北海道新聞社で手に入れてもらい、米と幾つかの握り飯を雑のうに入れて、やっと汽車に乗った。
公園のベンチのような板張りの椅子も、座れれば良い方で、通路はおろか、椅子の間までも身動きできない混雑ぶりであった。
一木万寿三を訪ねるため、江部乙の駅で、さっき苦労して入った窓から,雪のホームに降りたった。
一木は前の年の秋に疎開してきていた。リンゴ園の中に,12坪ばかりの家を買って来て建て、リンゴ園を経営しながら絵を描いていた。
若いころに上京し、東京にすみついていたので北海道の画壇とはあまり接触がなかったから、画家の友人も少なかった。
東京に居た時からの友人だった,菊地精二,田中忠雄がそれぞれ一度訪ねてきたぐらいで、ふだん画家と会うことはめったになかった。
岩船と一木は、一度戦時中に旭川で会ったことがある。護国神社奉納する「撃ちてしやまん」展に出品する作品のスケッチのため、各地から美術報国隊のメンバーが、旭川に集った時で、ほとんどその知らない画家ばかりであった。
国松や岩船ともその時が初対面であった。
リンゴ園の中の、足あとだけのような雪路を,汗をかきながら岩船は一木の家についた。
登山帽にオーヴァー、赤と黄のハイカラなマフラーが,軍服姿の岩船しか知らない一木には強烈な印象として写った。
戦時中の思い出話よりも,岩船は新しい展覧会の話を熱っぽく語った。いままで北海道の画壇にあまり関係のなかった一木だが、その構想には賛成であった。
病妻をかかえ、東京に帰るメドもない彼は、しばらくリンゴ園の中で絵をかく生活を続けなければならないと思っていた。それは多くの疎開画家達と同じ気持であった。
「うちでとれたリンゴだけど、口にあったらー」
一木は入口に積んであった箱の中から、リンゴを鉢に盛って岩船の前に出した。
岩船は子供のように,その一つを手にすると皮ごとかじりついた。甘いリンゴの香りと果汁が口の中にひろがり、リンゴとはこんなうまいものだったのだろうかと、赤いリンゴを夢中で四つる五つも食べた。
戦争が終った今でも、食べるものは生きるためのもので,うまいまずいは二の次であった。リンゴを食べながら,これがリンゴだ、これが平和の味というものかも知れないと、その時のリンゴは大きな感動として,岩船の心の中にいつまでも残るのだった。
リンゴを二つ三つ雑のうに入れると、岩船は次の汽車で小樽に向った。
小樽では国松登を中心に、何人かの人に集ってもらった。
函館に行く途中,倶知安で途中下車し、小川原脩を訪ねた。小川原は終戦直前に東京から引きあげて来た。一木と同じように北海道の画壇にはあまり知人もなかったが,この展覧会には賛成であった。
「倶知安からでは、会議のたびに札幌に行くのも大変だから、岩船さんにまかせるよ。とに角いい展覧会にしようよ。」ということになり、函館に向った。
函館では田辺三重松を中心に池谷寅一,橋本三郎,東政雄などが居り,道展の会員が多かったけれど,岩船の語る新しい展覧会には,双手をあげて賛成であった。
旭川から北には、有力な人がいなかった。疎開して来た人もなく、わざわざ足を運ぶこともなかった。
一地方に一人の優れた画家が居るということは、いかにその周辺の若い人々に大きな影響を及ぼすものであるかを,岩船はしみじみ考えていた。
当時の国松登会員
当時の西村貴久子会員
函館には田辺三重松が居たから,その囲りに、岩船,橋本,東,伊藤信夫といった若い人々が育ち、伸びてきた。旭川の高橋北修もそうだ。木田金次郎もそうだ。
新しい展覧会も、もっと広く若い画家に強い影響を与えるるにならなければならない、と岩船は一通りの連絡を終って、旭川へ帰る汽車の中でそう思うのだった。
岩船が小樽を訪れたころ,国松のところには新聞社からも連絡があったので、準備会にも出ることがあった。
彼は道展の会員でもあったので,繁野三郎や能勢真美に会うと,「道展も総会をひらいて,今後のことを相談しなければー」と提案したが、一向にその動きがなかった。
国松は戦中から引き続いて小樽市立工業(現石山中学校)の図画の先生をして、週二日ばかり学校に出ていた。学校のない日は空地の馬鈴薯畑の手入れや,買い出しに出かけなければならなかった。食糧事情は悪化するばかりで,配給の遅配、欠配は日常的なものであった。
国松は森町の兄にたのんで、魚の干物などを買い出しに行った時、近くの砂原村に西村貴久子や,途中の白老に居た川上澄生などを訪ねた。
大きなリュックサックを背負い、おまけに両手に又大きな包みを下げた彼の姿は、コッケイであったが,西村は笑うわけにもゆかなかった。その西村も、勤め先の学校から帰ると、親戚の網あげを手伝っていた。
川上は国松より大分年上だが,国展での受賞も,会員になったのも一緒だったので、ことさらなつかしく迎えてくれた。
札幌など大きな町で、いつも画家の友人と会えるところはよいが、辺鄙なところに孤立している人たちは、画家の来訪を本当にうれしく感じていたのである。
日本画家にも呼びかけよう,という準備会の決定で,松島は本間莞彩を訪ねた。
日本画家でも疎開して来ていた人が二,三人居た。北海道の出身者ではなかったが,文展日本画部に出品している若い人たちで南7条の豊川稲荷で日本画道場をひらいていた。
北海道には日本画を描く人が比較的少く、疎開の人たちは,在道の日本画家を見下げるような態度で、お互になじめないでいた。
新しい展覧会を作りたいんだ。そのために日本画もぜひ参加してほしいのだと、松島は本間に説いた。
「松島さん。趣旨には賛成ですけど、私は心配なんです。疎開して来た人たちは、いづれ東京に帰るんでしょう。その時中心になっているあなたたちが居なくなったら、会はどうなるんですか。北海道に住んでいる人はどうするんですか。それが心配なんです。」
本間莞彩は,温厚な笑顔を見せながらも、慎重であった。「僕たちは東京にアトリエがあるんだから、いづれ引きあげることになるだろう。けれど審査や展覧会の時は出かけて来ますよ。それに僕らが居なくなって、つぶれるような会なら,作らない方がましだよ。本間さん、それは思いすごしです。」
松島がいかに力説しても,本間の気持は動かしがたいものであった。
「それに私たちも、新しく日本画の会を作ろうと考えているんです」
松島は日本画の参加をあきらめざるを得なかった。
幾度かの準備会で,会員としてあげられた人の賛同を得ると,一度全員を集めて、もっと具体的に検討しようということになった。
召集をかけるにも、電話の不便なころだったので、すべて電報で連絡された。
12月も暮れに近い26日にその会議は召集された。何日に会議があるから出席せよと言われても、おいそれと汽車の切符は手に入らなかったので,札幌以外の地方からの出席者は少なかったが,20人近くの人が集った。
繁野三郎,松島正人,小川マリ,今田敬一,大月源次,小竹義夫,富樫正雄,荒井竜夫,国松登,高橋北修,上野山清貢,伊藤信夫,池谷寅一,岩船修三,一木万寿三,木田金次郎,三雲祥之助,菊地精二,北海道新聞社側からは中津井清吉,佐野四満美,関口次郎,武藤鉄雄であった。
その会議は第一回の創立準備委員会と名づけられ、午後一時からも北海道新聞社の会議室で開かれた。
会議はのっけから会の性格づけでもめた。公募展を主張する人。同人展がいいという人。アンデパンダン方式にすべきだという人。それぞれ自分の考えを主張し、なかなかゆづらなかった。中でも大月は、今こそ,会員も審査もない、民主的なアンデパンダン展にすべきだと、強力に主張した。
結局多数の意見で公募展にすることになった。というより参加した人々の多くは、はじめからそのつもりであったのである。
国松は同人展を主張していたが、多数の意見にしたがったけれど、大月,富樫らは会から抜けることになる。
会を構成する会員は,今までの準備会で名前をあげ、賛同した人々を会員とし,創立展に招待した人の中から、新らたに会員会友を作ろう、ということに落ちついた。
そこで会の名前をどうしようということになると,これまた意見が百出。
「新生美術協会」
「北方美術協会」
「新北海道美術協会」など色々名前が出たが、「新」がついてもいずれ古くなるのだからまずいよ、と反対が出るし、なかなか決らない。
今まで黙って聞いていた繁野三郎が「全道美術協会」がどうだろうの発言で、一挙に決ってしまった。
会の名称は全道美術協会,展覧会は略して全道展,ということに正式に決定した。
「この会は美術館を作る運動もやってもらいたいね」これは関口二郎の意見であった。築地小劇場という小屋があったから,日本の新劇はそれを足場に発展してきた。札幌には芝屋のできる小屋はおろか,演奏会さえできる場所がないではないか。それらの「容れもの」を作るのも芸術運動の一つだ。だからこの新しい会も「容れもの」すなわち美術館を作る運動も合せてやってもらいたい、というのが彼の主張であった。
「それでは北海道に美術学校を作る運動もやろうじゃないか」
それらのことも会の仕事としてやろうということが採択された。会も終りに近づき、同席して記事を書いていた新聞記者が,会議室から出て行ったころ、西村貴久子が汗をふきふき現われた。
道新と国松とから二通の電報を受けとり、無理して切符を手に入れ,砂原から立ちどうしできたのに,汽車がおくれて、こんなにおそくなって、と言いわけするのだったが、せっかく遠くからかけっけても会議が終るころではと皆同情した。
この創立準備会のことは28日付の北海道新聞にニュースとして報道された。
全道美術協会創立準備委員会北海道関係美術家の結集によって新日本文化建設に寄与せんとする美術団体の設立の準備会は26日午後1時より本社会議室に開催,当日は各地の鉄道事情のため左の18氏が出席,全員を準備委員として協議を重ね,その結果さらに不参者の賛意を求めた上,絵画,彫刻,の美術作家を包含する「全道美術協会」を創立することに決定。規約起草委員を指名,仮事務所を中島公園中根方に置いて準備を進めることになった。
事業としては3月頃会員展を、秋には一般公募展等を開催する計画で、会員展には招待出品も含まれており、美術館,美術学校設置運動等の計画と,全道美術界の革新的発展を見るものとして期待される。そしてそのあとには準備委員として、当日出席者の名前が列記されていた。
手前が当時の丸井デパート右後方が三越デパート
北海タイムス時代の道新社屋
年の瀬も迫った札幌の街は,カーキー色の軍服をきた米兵が闊歩するようになり、その腕にまつわりつく、厚化粧に派手な服装の女が目だつようになった。いわゆるパンパンの出現である。
四丁目の三越デパートは進駐軍のP・Xになり,三雲松島、田中などは時々三越につれてゆかれ,将校の似顔や,ジャンパーに桜の花などをかかされた。
戦前戦中を通じて,すべての言論をがんじからめにしばっていた諸法規が,進駐軍によって解除されると、新聞は有史以来はじめての自由を得たのであるが、それもつかの間、こんどは進駐軍による検問がはじまる。
米軍将兵による婦女暴行は枚挙にいとまがなく,それも「十三文大の靴の男」としか新聞には書くことができなかった。
市民はその「十三文の大男」の恐怖におびえながら、終戦の年はあわただしく暮れていった。
年が明けても、準備委員会にはいろいろの問題が残されていた。主張の違いから大月,富樫らが去り,荒井が東京へ帰ると準備会から名を消していった。
全道美術協会が,だんだん形をなし,創立準備委員会が発表になった頃、もう一つの動きが胎動をはじめていた。それは道展再建を叫ぶ若い人々の動きで、中央創成小学校などでたびたび会合がもたれ
「道展は解体したわけではない。戦前20年の歴史をもつ道展の伝統を守り、再建すべきである。」という意見が圧倒的であった。全道展の創立に参加していた道展の指導的立場にある人たちは窮地に立たされる羽目になった。
「新しい展覧会と,道展は対立するものでなく、両立し得るものである。」と説いても、事実疎開して来た画家たちが中心になり、道展にあき足らなかった会員を統合して新しい展覧会が出来つつある現実は,道展の会員でありながら、参加の呼びかける受けない人々を不安にしたことは否めない。
この再建の中心になったのは,当時ほとんど無名であった若い会員会友で,この人たちは後に道展青年作家協会として,道展再建の大きな推進力となったのである。
全道展創立のために参加していた、繁野,今田,能勢は,道展再建のため創立展を前に去らねばならなかった。
同時に,新しい展覧会を企画し、会社の事業として実現しようとしている北海道新聞社にも批判がなされ,関口二郎がその矢表に立たされた。
「伝統ある道展の無視であり,発展的解消による新しい展覧会の出発とは道展を分裂させようとするものである。」
というきびしいものであった。「これは道展の否定ということでなく、まして分裂を意図したものでもない。活動を停止していた道展を発展的に解消し、再編する形で、戦後の北海道美術の躍進の第一歩としたいと考えて計画したもので、新聞人的な発想であったことは否定しないが,多くの専門家の意見によって進めて来たことで、決して独善的な素人考えではなかったつもりである。」
「事実これまで積極的な反対意見もなく、道展復活の話もなかったし、去った人々の中には,終戦の時点で北海道美術界における道展の役割は終ったと発言した人もいたではないですか。」
関口は批判に対して,準備会の席でそう反論した。しかし社内にはこの批判に対して,新しい展覧会の開催に消極的な意見も出て来たことは事実である。
準備会は21年になって毎月のようにひらかれた。
「何をやっているんだ。早く展覧会をやれよ」上野山は会合で集るたびに,酒くさい息をはきながら大声で叫んだ。
最終的な準備会は3月に行なわれた。
幾度かの準備会が招集されるたびに,汽車に乗って来なければならない人は,その都度顔ぶれが変っていた。年末の会議に出られなかった山内も,次の会議から熱心に討議に参加した。学年末で忙しい時期なのに,校長の許可をもらって砂原村からかけつけた西村も,今度は会議に間に合った。
3月頃会員展をひらくという計画はすでに時間がなく、6月にしようということになり、招待者が推せんされた。
ここで会員があらためて確認された。居串佳一,池谷寅一,一本万寿三,伊藤信夫,岩船修三,上野山清貴,小川マリ,小川原脩,菊地精二,木田金次郎,国松登,斉藤広栄,高橋北修,田中忠雄,田辺三重松,西村貴久子,橋本三郎,松島正人,三雲祥之助,山内壮夫,川上澄生の21人が創立会員ということになった。
この人たちの中には道展の会員である人も沢山いた。菊地,伊藤,居串,小川田辺,国松,山内,橋本らで、会の規約も確立していなかったので,両会の会員でもいいではないかと考えている人もあった。その辺ははっきりしないまま事は運ばれていった。
戦時中なくなった文化部は,戦争が終っても復活しなかったが,12月になって編集局報道本部に文化部が出来た。関口は文化部次長であったが、4月及川部長に変って部長になった。美術担当記者は松宮保夫(現北海道文化放送常務)が当っていた。
紙不足から新聞の紙面は相変らずの2ページ立ての朝刊だけで、それでも昭和21年から日曜日に小さな文化欄が出るようになった。
街には発疹チフスがはやり,進駐軍は飛行機で空からD・D・Tをまき、旅行者は頭髪からズボンの中までシラミ退治のため、白い粉をぶつかけられた。ようやく平和になったものの,不安は次から次と市民を襲っていた。そのために映画館さえ休館させられた。すべては進駐軍の命令であった。
そんな時期に全道展開催のニュースは明るい話題となって道内にひろがっていった。
まだ東京でも公募展が復活していないが,しかも自分たちの故郷で,新しい展覧会の旗あげをすることはうれしいことであった。
展覧会の会期がきまると、札幌の会員は、道内の会員への連絡と招待者への案内と,いそがしくなった。
展覧会という目標が出来て、制作にも一段と力がこもった。三雲が連絡係になったので,中島公園の近くにあった川村宅にいた彼のところが全道美術協会の仮事務所となった。
創立展開催の知らせは、ガリ版刷りで会員,招待者のところに送られた。
三雲氏の事務所から発送された創立展の文書
(前略)新聞社側の都合により,当分の間展覧会開催不可能のやむなきに至った由と承ります。しかしこと文化に関することでありますので全道美術協会としては、今春の展覧会は新聞社の都合如何にかかわらず遂行したいと思います。ただ以上の理由で開催がのびのびになってしまったことだけは誠に遺憾なことでした。諸兄には以上の事情を諒とせられ御力作を御出品下さい。(以下略)
そして会期は6月1日-7日,会場丸井百貨店,号数は10号から50号まで(綜合号数50号まで2点)とされ、出品手数料は会員,推薦出品者共10円也,と記されていた。
陳列には道内から多数の会員が集って、皆楽しそうに絵を壁にかけた。準備会にも出たことがない人もあったので、陳列後はじめての会員総会が開かれた。
その総会で、11月第1回公募展の開催をきめ,招待出品者の中から、田辺謙輔,金子幸正,宮下貞一郎の3人が新しく会員として推薦された。会則とその運用,という議題もあったが,全道展の会員であって,道展の会員であってもいいではないか,という意見もあり、明文化するにいたらなかった。創立展には繁野三郎も出品していた。
全道美術協会創立展(その時は春期展とよばれた)は予定通り6月1日から7日まで丸井デパートで開かれた。出品総数56点という,こちんまりしたものであったが、戦後はじめての展覧会は、美術愛好家に久しぶりのそよ風を送った。愛好家ばかりでなく、道内の若い画家たちの強い関心を集めた。
会員は,色々の曲折があったけれど、やっと実現した新しい展覧会の未来に胸をふくらませ会場の中を行ったり来たりしていた。自由に絵をかける平和をしみじみと感ずるのだった。
道新の文化欄が週一回しかなかったため、創立展の批評は、展覧会が終って10日に出た。
「全道美術協会展を観る」と題して岡野予一という人が書いている。
惨担たりし過去数年間、美術の鑑賞より閉め出されていた道美術愛好家にとって、この展覧会は特に有益であろう。戦時にあっては無理が道理を押しのけ、人間の法則に惨る不合理が国家の名で公然と行われたため美術家もそれに追従し、従軍画家でなければ一人前に誰とも言葉をかわすのは恥かしかった惑の時さえあった。しかし戦事は終った。今人類が存続して行くためには、どこでも熱望している恒久的平和を建設するためには美術家も今までの偏狭な気持で絵の具をとき土をいぢってはならない。だからこの理由で、全道美術協会展は今後に期待する。(原文のまま)その後に出品者8人の短評をかき、疎開作家もいままでの中央依存主義をやめ、もっと時間的にも腰をおちつけ、北海道文化面に力と汗を出してくれることが望ましい。と結んでいた。
創立展が終ったころ、街は戦後久しぶりに復活する札幌祭の準備で活気づいていた。黒百合展も復活し、道展をはなれた日本画の人たちが,本間莞彩を中心に、北海道日本画協会を設立した。
8月になると北海道アンデパンダン美術連盟が結成され,道展も秋の展覧会を目ざして、着々と再建を進めていた。
美術界ばかりでなく、この年には実業野球少年野球も復活した。時は平和を刻んでいたかに見えたけれども、国民はますますひどくなる食糧事情のため、買出しを余儀なくされ、衣類や金目のものは次々食べるものに替えられていった。筍生活という言葉が流行語にさえなったのもこのごろである。
全道展の会員たちは、展覧会という目標ができたので、一生懸命描いた。絵が食糧に変ることもあった。
ついこの間展覧会が終ったばかりなのに,公募展を前に、9月ごろ会員の小品展をやろう、と言いだす者がいて、札幌の会員はすぐ賛成。直ちに全会員に通知された。
会場は今度は三越ということになった。三越は4丁目の店がP・Xに接収されたので豊平館で営業していた。今中島公園に移されている豊平館は、当時大通に面して今の市民会館の位置にあり前は池のある庭園であった。そこが三越で,商品る少く、催物会場などあるはずにもなかった頃だったので売場の壁の一部を使って、小品展をすることになった。当時のデパートは、今の華やかさから想像もつかない殺風景なもので、店舗の一部で開かれる美術展は,明るい雰囲気を作り,人々も見るものもない時であったので,展覧会に関心をよせていた。
その小品展は9月30日から10月5日まで開催された。兎に角展覧会をやって作品を発表することがうれしかった。
この小品展と同時に11月の公募展の準備も進められた。今まで三雲がやっていた仮事務所は,事務の仕事量も増えるということで,南1条東6丁目,市電の一条橋終点にあった松浦洋画材料店にうつし、正式に全道美術協会の事務所とした。
創立展の前にあった、北海道新聞社との若干のわだかまりも解消し、事業部は積極的に協力した。
札幌にいる会員は会務委員ということになり,会期は11月19日から6日間,丸井今井デパートで開催,搬入は11月12日,審査は13日,14日ということで準備を進めることになった。
鉄道事情は相変らず悪く,地方からの出品者が,この悪条件の中でどれだけの作品を送ってくるか心配された。地方にいる会員にも檄が飛ばされた。
10月半ばになると道展は戦後復活の展覧会を開催した。この時は全道展の会員でも国松,山内は道展にも作品を出していた。
11月3日北海道新聞は文化賞の設定を発表した。戦前北海タイムス時代,昭和15年に設定された文化賞は、戦後第1回として復活した。文化部長になった関口は、新しい文化賞設定の時期をうかがっていたが、ようやく実現したわけである。
第1回展出品目録
会場になった豊平館(手前右)と当時の札幌の街
地方出品者のことが心配であった。搬入日が近づくと、その心配はますます深刻になった。
「一日搬入日を延ばそうか」「いや、あとの審査の日程もある。地方出品者だけ半日のばそう」「そうだ審査を半日つめればいいんだ。」ということになり、すぐ新聞で発表してもらうことになった。
全道美術展地方搬入者は13日までという見出しで12日の朝刊(戦後ずっと夕刊はなかった)で報道された。
普通は12日午後4時までで締切るところ列車の遅延などの事情から地方出品者に対しては13日正午までの搬入を受けつけ午後から審査を行うことになった。
13日午後から審査が行われた。丸井の中の,お好み食堂へ通ずる廊下のような所であった。上野山は前列の真中に座り、各地から集った会員たちはそのまわりに思い思いの座をしめた。
搬入総数は225点で,大作でも50号,10号ぐらいから30号ぐらいが殆んどで、材料のない当時としては、夫々苦労のあとが作品ににじんでいた。
63点の入選を決め、受賞の作品が選ばれた。
協会賞菊地叉男,道新賞鈴木伝,長官賞池田豊二,市長賞森本三郎の4人で,池田豊二,鈴木伝,辺渡伊八郎,菊地叉男,森本三郎,谷口玉二郎,小島真佐吉の7名が会友として推せんされた。
会員で道展に出品した人もいたけれど、受賞者の中にも道展で賞をもらった人もいた。
審査会の終った夜,総会がもたれ、その席でそのことが問題になった。まだ道展の会員を正式にやめたわけでもなく,両方の会員である人もあり、その中にも自分は全道展の会員になったのだから、自動的に道展を止めたのだ,と思っている人,全道展と道展の両方の会員でもいいではないか,と思っている人ありで,道展に関係のなかった人々には不満であった。会の規約がまだ出来ない時だったので、それはなんら拘束されるものではなかったが,この辺で態度をはっきりすべきだという声が強かった。
会期は19日からと発表されていたが、1日くりあげて18日から6日間とされ、前日は会員がみんなで陳列に汗を流した。事業部の担当者であった大阪谷は、献身的に働いた。それから毎年,ランニング姿で陳列する彼の姿は,陳列の会場にひときわ目立つ存在であった。会友も出品者も手伝いにきた。
秋も終り,冬の到来をつげる雪虫が舞っていた。街は殺風景なもので、GIと腕を組んで歩いているパンパンの姿が,囲りの風景にとけこめない,妙な点景であった。
デパートの中も商品が少く、配給品のところにだけ人の列があった。
展覧会の会場だけが,明るい色彩が溢れてそこだけに陽があたっているようだった。
会員も含め総点数で94点しかない展覧会であったが,やっとここまでこぎつけたよろこびが,会員たちの顔にあふれていた。
ここに第1回全道美術協会展は、戦後の混乱のなかに、華々しく幕あけしたのである。
展覧会初日の北海道新聞には(18日付)上野山清貢が批評を書いている。
会員諸君の熱心な念願もだめで、集った作品は決して水準の高いものとは思わない。実はやや大作がもう少し集ることを期待していた。張合いのないことである。展覧会常識を頭にいれて鑑別する欠点は,何もこの小規模な催しのみにみられるものではないはずだが、何かすばらしいものがほしかった。受賞者諸君の絵も、大体道展その他で入賞した人々であることをあとで知った。小さな技巧で小器用にまとめたものでは、僕をウナラせるに価しない。非常に破綻はあったが,一方おしい絵で落ちたのもあったように記憶している。受賞者の作品短評を書き、更に続けて今の若い画家は少し要領がよすぎる。もうすこし乱棒な、本質的な、傍若無人な,独創的な一本立の勇ましい馬力をこそ望ましい。
「おやじさん、大作といったて無理だよ。描きたくても材料がないんだから」
酒の席で誰れかが,上野山の批評につい反論していた。「若いものは、もっと元気に、自由奔放に描かなくちゃーー」上野山のしわくちゃの顔は酒の酔いに幾分赤らみ、上機嫌に皆と大声で語りあっていた。
全道展で,道展と両方の会員になっていていいかどうかが問題になっているころ,道展でもそのことが論議されていた。
道展再建の中心になっていた人々は、ここで道展会員の再確認をしなければいけないと主張し、全会員会友にアンケートを出すことになった。
つまり道展に籍をおいて、強化に協力するつもりがあるかどうかというものであった。
当然まだ道展に籍のある全道展の会員のところにも葉書が来た。
「道展からこんなことを聞いて来たが,君はどうする」と田辺三重松から小樽の国松に手紙がきた。
「戦後早く総会を開けと言って来たのに開きもせず,新しい展覧会が出来たからといって、葉書一枚で,どうするというのは不愉快だから、私は道展を止める」と、折りかえし田辺に返事をかいた。田辺からもすぐ、私もそうする,と手紙が来た。
他の人も過去の道展にあきたらなかった人が多かったので,このの機会に態度をはっきりさせることになった。
こうして幾度も論議されながら、はっきりしなかった会員の問題は,これでようやくすっきりとした形になったのである。
戦後2年目,創立展,小品展,公募展と,失つぎ早やにやって来たあわただしさを、会員の誰もがしみじみ思い出していた。
そのあわただしかった一年も、寒々とした雪の中に,暮れようとしていた。
あとがき
全道展も30年を迎えた。疎開作家が東京に帰ったら、全道展はつぶれる、とよく言われて来たがつぶれることもなくここまで成長して来たことはよろこばしい。全道展と道展は対立しているように見る人もいるが,私はこの二つの公募展があったから、互に刺激し合い、互に伸びて来たのだと思っている。その道展も今年50周年を迎える。心からのよろこびを送りたい。
戦後の混乱期に、全道展が創立されたいきさつについて、多少誤解されて伝えられている節もあるので、私は、かねがねそのことについて,出来るだけくわしく書いておきたいと思っていた。しかし私は昭和23年に復員したのだから、現場にいた当事者ではない。結局当時創立に参加した人々の話をきき,それをもとにのこ一文は書きはじめられた。
「松島正幸,岩船修三,一木万寿三,国松登,西村貴久子,栃内忠男,それに道新を退職された関口二郎の諸氏に貴重な時間をさいて当時の話をしていただいた。そのテープは10時間分にもなり、整理も大変であった。なにしろ30年前の事で、記憶があいまいのところがあったりするので、色々の人の話を総合して話を組立てなければならなかった。もっとドラマチックに書くつもりだったのだが,結果として記録の綴り合わせのようになったのは,私の力不足の故である。
「北海道美術史」今田敬一著,北海道美術館刊,「北海道新聞三十年史」北海道新聞社刊,道新調査室にある当時の新聞などを参考にさせていただきました。
この一文のために御協力いただいた方々に厚くお礼申しあげます。
文中敬称は省略させていただきました。
ここに登場する創立会員の中から、居串佳一,伊藤信夫,上野山清貢、田辺三重松,山内壮夫、川上澄生の諸氏は故人となられ、その後会員となった人々のうちからも今までに,岡部文之助、寺島春雄,神田日勝,国井澄,菊地精二,前田政雄,宮下貞一郎の各氏が他界されました。
30周年を共に祝えないのが残念でならない。ご冥福を祈るばかり。
その後会の規約は,第6回展の後ででき,創立の時提唱された美術館建設の運動は,昭和36年,当時道新学芸部長であった山川力氏の努力で実現した。今新しい美術館の建設がはじまっている。
昭和22年以降のことは,又誰かに書いてもらいたいものである。
(1975.6.2)
※元となる原稿は「全道展 そのなりたち 本田明二(1975年)」です。